2010年2月19日金曜日

2010年2月9日火曜日

今時創業家とは

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ビール離れの世の中、ビールは好きな方で毎日晩酌に350m缶一本程度は飲む。キリンなら一番しぼり、サントリーはプレミアム、、朝日はドライ、サッポロは黒ラベルという調子だ。中でもプレミアムは値段はとりわけ高いが時々買って飲む。最近は外国のビールもさまざま売っているが、やはり日本のビールが一番おいしい。これもやはり日本のものづくり文化のたまものなのだ。

そのキリンとサントリーの合併話が出たので、へえ、と驚いた。経済・経営評論家たちはそろってそれは画期的なこと、世界的な競争の時代、両社とも生き残りのための戦略として決断した、他の企業にとってもいい模範になるような新しい企業を作って欲しいというような趣旨の発言が多かったものである。

結局その話はまとまらなかったというのあ昨日のニュースであった。私自身、ああそういえばそんなことがあったなあ、と忘れてしまっていたような状況だった。

キリン、サントリー両社長の話を聞いてなぜ交渉がまとまらなかったか、よく分かった。要するに、合併後新会社の持ち株比率に関して合意に至らなかったということだ。その比率でどちらが経営の主導権を握るか決まるのだからそれでもめるのは別に不思議はない。それぞれの持ち株比率は本来はキリン、サントリー両社の企業規模、売り上げ、マーケットシエアなどで決まるのだろう。ただ合併する以上サントリーが対等合併をめざすのも当然のことだである。

しかし、私はサントリー社長の「創業家の発言力確保は当然」という説明には納得できなかった。サントリーは創業者一族支配の非上場の会社である。それで成功を収め、やってきた企業だ。これからのその自信があるのだろう。そのスタイルを単独で続けていくのは勝手である。

しかし上場会社と合併する以上、これまでの企業文化ががらりと変わる、変えなければならないことなど最初から覚悟していたものと思っていた。いや、むしろそうするために長期的戦略のもとあえて合併という手段を選んだのだと思っていた。ところがそうでない、「創業家の発言力確保」が重要だという。なーんだ、そんなことか、と思ったのだった。
大企業、政府、なんと言わず、大組織の一番の経営原則はその経営がオープンであること、透明性が高いことだろう。非上場会社だからその透明性が保たれないということはないだろが、非上場であるが故にその危険性が高いことはいまさら論議するまでもなかろう。
偶然だが、今日こうした企業関連のニュースをチェックしていたら、あのトヨタのリコール問題が大きく出ていた。2、3日前豊田社長が、トヨタ創業以来の危機を訴えていた。体制奉還とかなんとか、言われて就任した創業家社長である。創業家社長であれ、なんであれ、今のトヨタはいまや世界的規模の企業、日本という国にとっても重要な企業である。だからトヨタは社長がどうこうでなく、全社をあげてこの問題に取り組んでいる。トヨタの栄枯盛衰は我々の国にとっても大きな重要事だ。国民の一人として一日も早い問題解決を望んでいるのである。

もう一つ、パナソニックが特許国際出願数で、2年ぶりに首位になったというニュースが載っていた。そのパナソニック、松下電器というあの偉大な創業者の名前をあえて取り去るという社長の決断があったことは記憶に新しい。創業者一族も特にそれに大きな抵抗をした形跡はない。

ビールの中でも一番おいしいというビールを作っているサントリーだ、その経営にももう少しプレミアムなところを見せていただけませんかと一言言いたいなったのでした。

tad

参考記事

2010年2月1日月曜日

ベクトルの和:私の文学的解釈

今日のBLOGより。

昨日のBLOGに対して数多くのコメントをいただいたが、その中でYadaさんから次のようなコメントをいただいた。

「日本には人との対立は避けるべき、特に目上に反対してはいけない、そういう道徳文化が背景にあるような気がします。」これに対して私は次のようにコメントさせていただき、ました。

「対立を避けるべきというより、無意識で避けるのです。それは自分が傷つくのを恐れるからです。結果建前と本音がいつもちがう。何かといえば和、です。異を唱えることは悪徳だと信じて疑わない。和を重んじるのはいいのです。ただ和の中身が違う。和のベクトルとはそれを構成するそれぞれの個のベクトルの方向性と量が問題なのです。」

和のベクトル量は、方向が一致していて、しかもそのベクトル量が大きいのが理想です。ただいくら方向性が一致していても、その量が小さいものであれば、和の量は決して大きいものにならない。和のベクトルはたしかに大きいが、個々のベクトル量自体が小さいものであればチーム員の満足度は小さく、達成感も低い。

チームがその総合力を発揮するためには、逆にベクトルの方向性はより大きく違っていてもそれが互いにマイナスに働かない範囲にさえあれば、方向性ではより劣るものの、個々のベクトル量が大きければ結果的には同じベクトルの和を達成するということになります。

その場合結果としてのベクトルの和の大きさが仮に同じであっても、個々のベクトルの方向性にかなり差があっても、それぞれのベクトル量がより強く大きい場合、そういうチームの方がチーム員の満足度が高く、達成感も高いということになるのではないか。時間の経過という要素を考慮に入れた場合、長期的にはより、その方がチーム員のモラール、志気がより高く、満足度も高く継続して成果をあげるということになるはずです。

高校野球甲子園で優勝するタイプはベクトルの和を求める上では、しばしば前者すなわち方向性重視のタイプであり、一方ベクトルの方向性自体の差は大きくチームワークに少々問題があってもチーム員に個性豊かな野武士がそろっていて、それぞれの個性、個人パワーを発揮して、結果チームを優勝に導くというロ野球チームモデルが後者であろう。

今日本という国を考えた場合、その社会に活力が不足している、その政治にダイナミズムが欠けているのは制度の欠陥、政治家のリーダシップ不足に欠けるという面もなくはないが、そもそも主権者たる国民の一人一人の政治意識が低いというところに主な原因があるといいたいわけである。日本の国が安全で平和だから政治意識が低くていいとかのごときものいいこそが大問題であることに気がついていない、それが平和ぼけ以外なにものでもないと言いたいのだ。

文系の私には高度な数学ベクトル論など理解しようがないし、その理論を使ってこの論を展開しているわけでもないが、その何たるかについてご参考のためその数学ベクトル論の基本的な内容を提示しておく。

tad

2010年1月26日火曜日

古狸さんに批判の資格はない

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「ばらまきの公共事業をやったのはどの政党か」。25日の衆院予算委員会で、八ツ場ダム(群馬県)の建設中止問題で「公共事業こそ民意を問え」と求めた自民党の町村信孝元官房長官に対し、前原誠司国土交通相が激高する場面があった。」:時事通信

この町村氏に限らないが、自民党の体勢そのもの、普天間の問題、ダム建設の問題、JALの問題、財政債権問題、どの問題にしても、そもそもその問題の根源は自分たちの政権時代に作ったものであることを忘れ、それを横においておいて批判する資格など全くないのだ。政権担当後の本会議演説で鳩山首相が、「あなたたちに言われたくない」と答弁したら非難ごうごう、その後首相はそれを封印したが、封印することなど一切ない。それが事実だからだ。

八ッ場ダムの説明集会で前原国土交通相が深かぶかと頭を下げ、住民に謝罪をしていた姿を多くの国民は好意的な目を持ってみていたはずだ。前原氏が、住民がこういうひどい仕打ちを受けることに、住民自体にはなんの責任もないとした上で、しかしダムの建設中止を撤回しない、できないことは苦渋の選択以外なにものでもないことを訴えたのだった。私自身はダム建設中止は正しい選択であり、それが長い目では国家国民、ひいては地域住民のためにも最良の選択だと思うし、国民の過半数もそう考えていると思う。その前提として、地域住民にはあらゆる配慮。その後の生活を支えるための補償をすべきことも当然の措置であり、前原氏もそれを明言している。

それを住民が反対しているから、ダム建設を継続せよとか、もっと慎重に検討せよとかいう前科ある政党の判に、前原氏が逆ギレするのは当たり前ではないか。大いに逆ギレして見せたらいい。この町村氏、この前の日曜日のTV討論で、政治資金問題でさかんに民主党を攻撃していた。あまりにもその表現がひどいので、第三者のコメンテーターからそれは自民党の体質そのものではなかったかとたしなめられる場面があった。

いや、実はそんなことは一々いわなくても国民にはわかっていることなのだ。いま民主党政権が難題として取り組んでいる多くの問題はそもそも自民党政権時代から積み重ねられ放置されてきたことの後始末が多い。その後始末に苦労しているのに、どうなってんだ、どうするんだと批判する資格などあろうはずがない。いや、それにも反対なら反対でいいが、その根拠とそれに代わる代案を示すならいいが、相変わらず、「民意を問え」などと言ってただ問題先送りを続けてもなんの益もないのである。

前原氏が住民の前で「すみません」と頭を下げているのは、半分以上自民党の失政のせいであることを忘れ、よくもまああれだけぬけぬけとものが言えたものである。こんなことだから民主党がエラーを連発する一方で、自民党の支持率が一向に上がらないのである。
町村氏をはじめとする、やっと比例で復活当選をしてきた古狸族にはそのことがわかっていない。こんなことで自民党の再生などあろうはずがないのである。

tad

2010年1月12日火曜日

就職難時代:高校・大学の教育充実

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昨日は「成人の日」あちこちで着飾った若者が市や町の主催のお祝いの会で市長の訓辞を聞いている風景があった。そして中には荒れる成人ののいつもの風景。この国って一体どうしてなにもかもこうワンパターンなのかとつくづく思う。私らが成年になった時は大学生だったと思うがこんな行事はなかった。いつからこんな儀式が行われるようになったのだろうか。

いや、今日の話は成人式のことでない。そもそもこの成人式なるものは一体なんのためにあるのかさっぱりわからない。いや成人の門出を祝ってやることを別に悪いとは言わない。しかし政府といい、地方自治体といい、若者が成人になったことをただ祝ってやるよりもっと大切なことがあるのではないかと思うのだ。彼らは将来の国の存立を支えていく重要な人材なのである。またその人材たる若者ももっと、人の手を借りないで、自らどうしたら自立できるか考えて欲しいのである。

新成人にはこれからの社会のあらゆる分野で、それぞれの役割を果たすための重要な働き手となってもらわなければならないのだ。国家はそのために彼らにどういう社会観、職業観を持ってもらいか、どう働いてもらいたいか、そのために彼らにどういう教育を施し、それぞれの分野の担い手となるためのどんな教育訓練が必要かを考えなければならないのだ。そのために支援は惜しんではならない。

民主党政権は高校の無償化を打ち出した。賛成である。国の将来の担い手を育てることは国の責任だ。そのための財源などたかがしれている。問題はそうして行われる教育の中身である。これは高校はもちろん大学も同じなのだが、自分自身の経験から言っても、またさまざまな現在の高校・大学における教育の現実を見聞するにつけ、そうした場で、若者が社会に出て働き即戦力となるような教育がなされているとは到底思えない。即戦力というと誤解があるだろうが、要するに基礎的な知識、技能の教育がどれだけなされているかである。

今大学、高校の就職内定率が問題になっている。今年の場合、昨年10月の段階で大学生が62%、高校生にいたっては39%などという史上最低の数字である。高校生の場合、まだ進学という道があったり、まだ未成年という気安さもあるが、もうその先がない大学生にとって就職できるできないはたしかに深刻な問題である。

しかしこの就職内定という数字だけが問題になることについて私はずっと以前から大きな疑問を持っていた。ことこの問題で言うと、雇う方も、雇われる方もものの考えが極めてワンパターン、画一的である。働くとは、仕事とは、ただ企業に勤めたり、役所に勤めたりすることだけか、ということか。日経の社説にあるように、今の社会もっと新しい働き口が沢山あるのではないかということだ。さらに採用がすべて一斉という定期採用になっていることもおかしい。どうして必要に応じてそれがなされないのか。

そうした画一的なものの考えに疑問を呈し、発想転換が必要なことを11日の日経新聞社説いが書いているのだ。は現代の若者は若者なりに低迷する社会の中で、どう生きたらいいか、それぞれ考えているし、就職活動ということについてもいくつかの新しい分野への挑戦の姿勢を持っていると指摘している。そし行政の側もそうした新しい分野開拓に力を貸すべきとしているのだ。雇う側もその採用パターンを変えていくことの必要性も訴えている。

日経社説は、新しい分野での仕事を生み出していくこと、そういう分野への挑戦の意欲を持つ若者を育てていくためにも、高校・大学における教育をもっと実務的、職業訓練的なものとして充実していく必要性があることを説いているが、その通りではないか、

そのことは、私自身の高校・大学での学習体験からしてもそうだし、現在の教育内容を見聞していてもは強く感じることである。企業は、新卒を採用しても、彼らが即戦力になることなど頭から期待していない。必要な知識、技術はすべて入社してから与えるということになっている。それが常識になっていること自体おかしいのでないか。語学にせよ、IT関連にせよ、基本的な読み書きの教育にせよ、もっと就職後の仕事の役に立つことを念頭においた教育がなされることは可能だし、そうなるべきではないのか。

私今地元の小学校で子供たちにボランティアとして、パソコンを教える機会があるが、たまたま地元の高校生もカリキュラムの一環として、教える側として参加している。しかしパソコンに関して、教える側の高校生のあまりにも低い知識、技能レベルに驚くことが多い。高校でも、パソコンはIT教育の一環としてカリキュラムの中におり込まれているはずだが、実質的な教育はあまり行われていないようである。それは別にパソコンに限らないが、こんな高校生が就職しても、仕事に必要な知識や技能が身についてなくては仕事ができるわけがないのである。雇った側はパソコンをはじめ基礎的な技術、実技、場合によっては読み書きを教えることから始めなければならないのだ。

高校の無償化はいいことだと思うが、それを意味あるものにするためには、高校・大学といった高等教育の中身の充実こそが、あらゆる意味で現在の就職難問題を解決する根本的な対策の一つであることを指摘しておきたい。

tad

2010年1月10日日曜日

何が黄門さまだ

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私は昔からTV番組「水戸黄門」が好きで、もう何十年続いたのか、今でも再放送を含め飽きもしないで楽しんでみている。特に夢中になって見ているわけではないが、くだらない、凝りに凝ったTVドラマなどよりよほどおもしろい。あんなワンパターンの話のどこがおもしろいのかとカミさんに馬鹿にされながら、それでもその単純明快な紙芝居を楽しんでいるのである。

いやなぜそうなったかはいちいち説明する必要もないが、一つあるのは、まだ小さい子供の頃、この水戸黄門の話に接したということがある。

私がまだ小学校に入学したばかりの頃、一家は大阪、堺に住んでいた。当時日本は太平洋戦争の末期、日本の各都市は大空襲の被害を受けていた時期だ。七人も兄弟がいて大変だと、上の姉と私が富山の祖父母の家に疎開させられた。その間終戦までわずか十ヶ月くらいの間だが、祖父母の家に住み、地元の小学校に通ったのである。堺の家には子供向けの本や絵本があり、子供の頃から結構見よう見真似でそうしたものを読んでいた。

ところが祖父母の家にはそんな本などまったくなかった。なにせ疎開先のこと、近所に友達もなく、祖父母が一緒に遊んでくれるわけでない、結構退屈していたに違いない。そんな時、家の床の間の棚にあったのが、講談の本、五、六冊はあったと思う。祖父が読んでいたのだろう。その中に宮本武蔵だの、太閤秀吉だの。水戸黄門の話があった。特に水戸黄門の話がおもしろく何度も何度も読んだものだ。今のテレビの水戸黄門の話などでなくさらにもっと単純明快なものであった。だから読めたのだろう。

いやそれがあったからに違いない。高校、大学そして社会人になってもTVのドラマで登場する太閤記、宮本武蔵、水戸黄門などどんなストリーであれ、熱心に見てきたものだ。社会人になって会社勤めをし、複雑な人間関係、仕事に悩む中で、いつもあの「葵の紋所」があったらどんなにいいかと思ったことは何度もあったのだ。世間の苦労などなんにも知らない(?)カミさんなどがそうした「屈折した」心情(?)などわかるわけがないのである。

前置きが長くなった。講談についての昔話をするつもりではない。今日言いたいのはその政界の水戸黄門と呼ばれる渡部恒三氏のことだ。最近のこの人の言動について苦言を呈するのが目的である。水戸黄門の実像などまた別のものがあるのだろう。それはよく知らない。が、少なくともTVや講談本に出てくるような水戸黄門はもっと明快な正義感を持った人であり、今の渡部恒三氏のようなぬえ的存在でないことは明らかだ。ぬえのように陰気ではないが、正体不明なところがある。

特に最近民主党の党顧問からはずされてから、なにかと小沢批判を始めた。批判が悪いとは言わぬ。やるならもっと正々堂々、小沢氏のどこがどう間違っているか、それがどうして天下国家のため、民主党政権のためにならないのかを言うべきである。それをちくりちくりと皮肉をいうばかり。まさにスキャンダル、あら探しばかりやっているマスコミ以下のていたらくである。

長年衆議院の副議長をやり、勲一等旭日大褒章を受けた身である。すでに小沢氏などよりはるかに栄華栄達の身なのだ。その立場から天下国家を論じ、小沢氏を批判するのならいい。それが民主党の七奉行なるものを作って、小沢氏が中国に出かけている間に七奉行を集め、反小沢連合を作っているのような印象を与えることが天下の副将軍のやることなのか。マスコミは面白がってそれをやるが、そんなものに乗る方も乗る方である。

tad