日米で始まったプロ野球、さまざまな話題にこと欠かない。もっとも長島茂、松井秀喜両氏が国民栄誉賞を受けたといニュース、あ率直にそうか、そうかそれはよかったと祝ってあげたいところだが、なんとなく釈然としない感じが残るところがあるのは否めない。
いやそれに関する4月3日の朝日新聞の天声人語を読んでみてください。別にそれを批判しているわけでもないのだが、それについて、なんとなくその釈然としないニューアンスが伝わってくる。
いや、国民栄誉賞については、どうしても、純粋にスポーツのことでなく、政治というもの、最高権力者の判断がからんでくる。これについては、どうしてそういう判断にいたったかなど、それを決定した側の説明が伴うからである。しばしば、なぜ今なのかとか、松井や長島に与えるのなら、どうしてあの人はもらえないのか、あの人に出さないのかなどという話になってくる。
まあそちらの話はいい。その点ではダルビッシュが後打者一人で完全試合を逸したということ、これなどまさにそれは100%事実関係そのものであって、ああでもないこうでもないと、推測したり、解釈してみたりすることなど一切不要だ。
こちらは達成しそうだったが、出来なかったという明確な結果だから、誰にとってもなんの文句だの論評を加えることはないことだ。達成していれば大絶賛となっただろうし、出来なかったからといっても、、いやさすがダルビッシュたいしたものという評価になっている。それでいいのだ。
ダルビッシュは相当悔しかったのだろうが、「それを達成した投手に比べて、自分はどこか違っている」という発言についても、誰しも大いに好感を感じたに違いない。
この件の関し日米マスメディアのさまざまな報道があるが、私の一番関心を引いたのが
「『ダルは史上11人目の完全試合未遂投手』米メディアが称賛!」というサンスポの記事だった。あれ? それどういうことかと一瞬疑ったが、その中身を読んで納得した。
長いメジャの歴史の中で、完全試合は23回あるが、後一人で完全試合を逃したケースはなんと今度で11回目ということだったのだ。野球では9回二死となると観衆がコールする「後一人、後一人」というやつだ。ところがその最後の一人、一球で、完全試合はもちろん試合そのものがひっくり返ってしまうこともある。ダルビッシュもその最後の一人で完全試合を逸した。そうした例が過去11もあったということなのだ。
私はそれを読んで一瞬「画竜点睛を欠く」という日本のことわざを思い出した。後一筆
竜の目を入れなかったために、その画自体がダメなものになってしまう。だからどんなことでも、その最後の一点を描き入れることが大切だという教訓、人生訓なのだ。英語でも同じような言葉があって、"lack the finishing touch" と表現している。
いや、これは人間の行動にまつわることでは万国共通のことなのだろう。人間何をやるにしても最後の瞬間まで気を抜くな、集中力を欠くなということだろう。ところが最後の最後気を抜いたわけではないが、心の中で、「よし、これで最後と思った瞬間、いわゆる邪気が生じ、それまでの行動と違うことをやってしまう。それが人間の行動というものだ。メジャーの歴史にもそのことが残されているということなのだ。
これを「11人目の偉業!」とダルビッシュを称賛したメディアは決して皮肉を込めてそれを言ったのではなく、まさにそれが人間であり、第一その被対象者だって、完全試合などなどそんな歴史を作られてはたまららないと必死に抵抗することもある。まあ言ってみればまさに勝負の神様、そのバランスを取るためにあえてそういう結果にしている、してきたということなのである。
いやある意味、それでよかった、よかったという感じにすらある。、それがまさにメジャー11人めの偉業!という表現になっているのだろう。私も今回のこの事件(?)そういう感じで受け止めている。
tad
関係記事:
ダルは史上11人目の完全試合未遂投手」米メディアが称賛!?:sanspo
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