2010年2月1日月曜日

ベクトルの和:私の文学的解釈

今日のBLOGより。

昨日のBLOGに対して数多くのコメントをいただいたが、その中でYadaさんから次のようなコメントをいただいた。

「日本には人との対立は避けるべき、特に目上に反対してはいけない、そういう道徳文化が背景にあるような気がします。」これに対して私は次のようにコメントさせていただき、ました。

「対立を避けるべきというより、無意識で避けるのです。それは自分が傷つくのを恐れるからです。結果建前と本音がいつもちがう。何かといえば和、です。異を唱えることは悪徳だと信じて疑わない。和を重んじるのはいいのです。ただ和の中身が違う。和のベクトルとはそれを構成するそれぞれの個のベクトルの方向性と量が問題なのです。」

和のベクトル量は、方向が一致していて、しかもそのベクトル量が大きいのが理想です。ただいくら方向性が一致していても、その量が小さいものであれば、和の量は決して大きいものにならない。和のベクトルはたしかに大きいが、個々のベクトル量自体が小さいものであればチーム員の満足度は小さく、達成感も低い。

チームがその総合力を発揮するためには、逆にベクトルの方向性はより大きく違っていてもそれが互いにマイナスに働かない範囲にさえあれば、方向性ではより劣るものの、個々のベクトル量が大きければ結果的には同じベクトルの和を達成するということになります。

その場合結果としてのベクトルの和の大きさが仮に同じであっても、個々のベクトルの方向性にかなり差があっても、それぞれのベクトル量がより強く大きい場合、そういうチームの方がチーム員の満足度が高く、達成感も高いということになるのではないか。時間の経過という要素を考慮に入れた場合、長期的にはより、その方がチーム員のモラール、志気がより高く、満足度も高く継続して成果をあげるということになるはずです。

高校野球甲子園で優勝するタイプはベクトルの和を求める上では、しばしば前者すなわち方向性重視のタイプであり、一方ベクトルの方向性自体の差は大きくチームワークに少々問題があってもチーム員に個性豊かな野武士がそろっていて、それぞれの個性、個人パワーを発揮して、結果チームを優勝に導くというロ野球チームモデルが後者であろう。

今日本という国を考えた場合、その社会に活力が不足している、その政治にダイナミズムが欠けているのは制度の欠陥、政治家のリーダシップ不足に欠けるという面もなくはないが、そもそも主権者たる国民の一人一人の政治意識が低いというところに主な原因があるといいたいわけである。日本の国が安全で平和だから政治意識が低くていいとかのごときものいいこそが大問題であることに気がついていない、それが平和ぼけ以外なにものでもないと言いたいのだ。

文系の私には高度な数学ベクトル論など理解しようがないし、その理論を使ってこの論を展開しているわけでもないが、その何たるかについてご参考のためその数学ベクトル論の基本的な内容を提示しておく。

tad

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