2010年3月22日月曜日

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2010年2月19日金曜日

2010年2月9日火曜日

今時創業家とは

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ビール離れの世の中、ビールは好きな方で毎日晩酌に350m缶一本程度は飲む。キリンなら一番しぼり、サントリーはプレミアム、、朝日はドライ、サッポロは黒ラベルという調子だ。中でもプレミアムは値段はとりわけ高いが時々買って飲む。最近は外国のビールもさまざま売っているが、やはり日本のビールが一番おいしい。これもやはり日本のものづくり文化のたまものなのだ。

そのキリンとサントリーの合併話が出たので、へえ、と驚いた。経済・経営評論家たちはそろってそれは画期的なこと、世界的な競争の時代、両社とも生き残りのための戦略として決断した、他の企業にとってもいい模範になるような新しい企業を作って欲しいというような趣旨の発言が多かったものである。

結局その話はまとまらなかったというのあ昨日のニュースであった。私自身、ああそういえばそんなことがあったなあ、と忘れてしまっていたような状況だった。

キリン、サントリー両社長の話を聞いてなぜ交渉がまとまらなかったか、よく分かった。要するに、合併後新会社の持ち株比率に関して合意に至らなかったということだ。その比率でどちらが経営の主導権を握るか決まるのだからそれでもめるのは別に不思議はない。それぞれの持ち株比率は本来はキリン、サントリー両社の企業規模、売り上げ、マーケットシエアなどで決まるのだろう。ただ合併する以上サントリーが対等合併をめざすのも当然のことだである。

しかし、私はサントリー社長の「創業家の発言力確保は当然」という説明には納得できなかった。サントリーは創業者一族支配の非上場の会社である。それで成功を収め、やってきた企業だ。これからのその自信があるのだろう。そのスタイルを単独で続けていくのは勝手である。

しかし上場会社と合併する以上、これまでの企業文化ががらりと変わる、変えなければならないことなど最初から覚悟していたものと思っていた。いや、むしろそうするために長期的戦略のもとあえて合併という手段を選んだのだと思っていた。ところがそうでない、「創業家の発言力確保」が重要だという。なーんだ、そんなことか、と思ったのだった。
大企業、政府、なんと言わず、大組織の一番の経営原則はその経営がオープンであること、透明性が高いことだろう。非上場会社だからその透明性が保たれないということはないだろが、非上場であるが故にその危険性が高いことはいまさら論議するまでもなかろう。
偶然だが、今日こうした企業関連のニュースをチェックしていたら、あのトヨタのリコール問題が大きく出ていた。2、3日前豊田社長が、トヨタ創業以来の危機を訴えていた。体制奉還とかなんとか、言われて就任した創業家社長である。創業家社長であれ、なんであれ、今のトヨタはいまや世界的規模の企業、日本という国にとっても重要な企業である。だからトヨタは社長がどうこうでなく、全社をあげてこの問題に取り組んでいる。トヨタの栄枯盛衰は我々の国にとっても大きな重要事だ。国民の一人として一日も早い問題解決を望んでいるのである。

もう一つ、パナソニックが特許国際出願数で、2年ぶりに首位になったというニュースが載っていた。そのパナソニック、松下電器というあの偉大な創業者の名前をあえて取り去るという社長の決断があったことは記憶に新しい。創業者一族も特にそれに大きな抵抗をした形跡はない。

ビールの中でも一番おいしいというビールを作っているサントリーだ、その経営にももう少しプレミアムなところを見せていただけませんかと一言言いたいなったのでした。

tad

参考記事

2010年2月1日月曜日

ベクトルの和:私の文学的解釈

今日のBLOGより。

昨日のBLOGに対して数多くのコメントをいただいたが、その中でYadaさんから次のようなコメントをいただいた。

「日本には人との対立は避けるべき、特に目上に反対してはいけない、そういう道徳文化が背景にあるような気がします。」これに対して私は次のようにコメントさせていただき、ました。

「対立を避けるべきというより、無意識で避けるのです。それは自分が傷つくのを恐れるからです。結果建前と本音がいつもちがう。何かといえば和、です。異を唱えることは悪徳だと信じて疑わない。和を重んじるのはいいのです。ただ和の中身が違う。和のベクトルとはそれを構成するそれぞれの個のベクトルの方向性と量が問題なのです。」

和のベクトル量は、方向が一致していて、しかもそのベクトル量が大きいのが理想です。ただいくら方向性が一致していても、その量が小さいものであれば、和の量は決して大きいものにならない。和のベクトルはたしかに大きいが、個々のベクトル量自体が小さいものであればチーム員の満足度は小さく、達成感も低い。

チームがその総合力を発揮するためには、逆にベクトルの方向性はより大きく違っていてもそれが互いにマイナスに働かない範囲にさえあれば、方向性ではより劣るものの、個々のベクトル量が大きければ結果的には同じベクトルの和を達成するということになります。

その場合結果としてのベクトルの和の大きさが仮に同じであっても、個々のベクトルの方向性にかなり差があっても、それぞれのベクトル量がより強く大きい場合、そういうチームの方がチーム員の満足度が高く、達成感も高いということになるのではないか。時間の経過という要素を考慮に入れた場合、長期的にはより、その方がチーム員のモラール、志気がより高く、満足度も高く継続して成果をあげるということになるはずです。

高校野球甲子園で優勝するタイプはベクトルの和を求める上では、しばしば前者すなわち方向性重視のタイプであり、一方ベクトルの方向性自体の差は大きくチームワークに少々問題があってもチーム員に個性豊かな野武士がそろっていて、それぞれの個性、個人パワーを発揮して、結果チームを優勝に導くというロ野球チームモデルが後者であろう。

今日本という国を考えた場合、その社会に活力が不足している、その政治にダイナミズムが欠けているのは制度の欠陥、政治家のリーダシップ不足に欠けるという面もなくはないが、そもそも主権者たる国民の一人一人の政治意識が低いというところに主な原因があるといいたいわけである。日本の国が安全で平和だから政治意識が低くていいとかのごときものいいこそが大問題であることに気がついていない、それが平和ぼけ以外なにものでもないと言いたいのだ。

文系の私には高度な数学ベクトル論など理解しようがないし、その理論を使ってこの論を展開しているわけでもないが、その何たるかについてご参考のためその数学ベクトル論の基本的な内容を提示しておく。

tad

2010年1月26日火曜日

古狸さんに批判の資格はない

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「ばらまきの公共事業をやったのはどの政党か」。25日の衆院予算委員会で、八ツ場ダム(群馬県)の建設中止問題で「公共事業こそ民意を問え」と求めた自民党の町村信孝元官房長官に対し、前原誠司国土交通相が激高する場面があった。」:時事通信

この町村氏に限らないが、自民党の体勢そのもの、普天間の問題、ダム建設の問題、JALの問題、財政債権問題、どの問題にしても、そもそもその問題の根源は自分たちの政権時代に作ったものであることを忘れ、それを横においておいて批判する資格など全くないのだ。政権担当後の本会議演説で鳩山首相が、「あなたたちに言われたくない」と答弁したら非難ごうごう、その後首相はそれを封印したが、封印することなど一切ない。それが事実だからだ。

八ッ場ダムの説明集会で前原国土交通相が深かぶかと頭を下げ、住民に謝罪をしていた姿を多くの国民は好意的な目を持ってみていたはずだ。前原氏が、住民がこういうひどい仕打ちを受けることに、住民自体にはなんの責任もないとした上で、しかしダムの建設中止を撤回しない、できないことは苦渋の選択以外なにものでもないことを訴えたのだった。私自身はダム建設中止は正しい選択であり、それが長い目では国家国民、ひいては地域住民のためにも最良の選択だと思うし、国民の過半数もそう考えていると思う。その前提として、地域住民にはあらゆる配慮。その後の生活を支えるための補償をすべきことも当然の措置であり、前原氏もそれを明言している。

それを住民が反対しているから、ダム建設を継続せよとか、もっと慎重に検討せよとかいう前科ある政党の判に、前原氏が逆ギレするのは当たり前ではないか。大いに逆ギレして見せたらいい。この町村氏、この前の日曜日のTV討論で、政治資金問題でさかんに民主党を攻撃していた。あまりにもその表現がひどいので、第三者のコメンテーターからそれは自民党の体質そのものではなかったかとたしなめられる場面があった。

いや、実はそんなことは一々いわなくても国民にはわかっていることなのだ。いま民主党政権が難題として取り組んでいる多くの問題はそもそも自民党政権時代から積み重ねられ放置されてきたことの後始末が多い。その後始末に苦労しているのに、どうなってんだ、どうするんだと批判する資格などあろうはずがない。いや、それにも反対なら反対でいいが、その根拠とそれに代わる代案を示すならいいが、相変わらず、「民意を問え」などと言ってただ問題先送りを続けてもなんの益もないのである。

前原氏が住民の前で「すみません」と頭を下げているのは、半分以上自民党の失政のせいであることを忘れ、よくもまああれだけぬけぬけとものが言えたものである。こんなことだから民主党がエラーを連発する一方で、自民党の支持率が一向に上がらないのである。
町村氏をはじめとする、やっと比例で復活当選をしてきた古狸族にはそのことがわかっていない。こんなことで自民党の再生などあろうはずがないのである。

tad

2010年1月12日火曜日

就職難時代:高校・大学の教育充実

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昨日は「成人の日」あちこちで着飾った若者が市や町の主催のお祝いの会で市長の訓辞を聞いている風景があった。そして中には荒れる成人ののいつもの風景。この国って一体どうしてなにもかもこうワンパターンなのかとつくづく思う。私らが成年になった時は大学生だったと思うがこんな行事はなかった。いつからこんな儀式が行われるようになったのだろうか。

いや、今日の話は成人式のことでない。そもそもこの成人式なるものは一体なんのためにあるのかさっぱりわからない。いや成人の門出を祝ってやることを別に悪いとは言わない。しかし政府といい、地方自治体といい、若者が成人になったことをただ祝ってやるよりもっと大切なことがあるのではないかと思うのだ。彼らは将来の国の存立を支えていく重要な人材なのである。またその人材たる若者ももっと、人の手を借りないで、自らどうしたら自立できるか考えて欲しいのである。

新成人にはこれからの社会のあらゆる分野で、それぞれの役割を果たすための重要な働き手となってもらわなければならないのだ。国家はそのために彼らにどういう社会観、職業観を持ってもらいか、どう働いてもらいたいか、そのために彼らにどういう教育を施し、それぞれの分野の担い手となるためのどんな教育訓練が必要かを考えなければならないのだ。そのために支援は惜しんではならない。

民主党政権は高校の無償化を打ち出した。賛成である。国の将来の担い手を育てることは国の責任だ。そのための財源などたかがしれている。問題はそうして行われる教育の中身である。これは高校はもちろん大学も同じなのだが、自分自身の経験から言っても、またさまざまな現在の高校・大学における教育の現実を見聞するにつけ、そうした場で、若者が社会に出て働き即戦力となるような教育がなされているとは到底思えない。即戦力というと誤解があるだろうが、要するに基礎的な知識、技能の教育がどれだけなされているかである。

今大学、高校の就職内定率が問題になっている。今年の場合、昨年10月の段階で大学生が62%、高校生にいたっては39%などという史上最低の数字である。高校生の場合、まだ進学という道があったり、まだ未成年という気安さもあるが、もうその先がない大学生にとって就職できるできないはたしかに深刻な問題である。

しかしこの就職内定という数字だけが問題になることについて私はずっと以前から大きな疑問を持っていた。ことこの問題で言うと、雇う方も、雇われる方もものの考えが極めてワンパターン、画一的である。働くとは、仕事とは、ただ企業に勤めたり、役所に勤めたりすることだけか、ということか。日経の社説にあるように、今の社会もっと新しい働き口が沢山あるのではないかということだ。さらに採用がすべて一斉という定期採用になっていることもおかしい。どうして必要に応じてそれがなされないのか。

そうした画一的なものの考えに疑問を呈し、発想転換が必要なことを11日の日経新聞社説いが書いているのだ。は現代の若者は若者なりに低迷する社会の中で、どう生きたらいいか、それぞれ考えているし、就職活動ということについてもいくつかの新しい分野への挑戦の姿勢を持っていると指摘している。そし行政の側もそうした新しい分野開拓に力を貸すべきとしているのだ。雇う側もその採用パターンを変えていくことの必要性も訴えている。

日経社説は、新しい分野での仕事を生み出していくこと、そういう分野への挑戦の意欲を持つ若者を育てていくためにも、高校・大学における教育をもっと実務的、職業訓練的なものとして充実していく必要性があることを説いているが、その通りではないか、

そのことは、私自身の高校・大学での学習体験からしてもそうだし、現在の教育内容を見聞していてもは強く感じることである。企業は、新卒を採用しても、彼らが即戦力になることなど頭から期待していない。必要な知識、技術はすべて入社してから与えるということになっている。それが常識になっていること自体おかしいのでないか。語学にせよ、IT関連にせよ、基本的な読み書きの教育にせよ、もっと就職後の仕事の役に立つことを念頭においた教育がなされることは可能だし、そうなるべきではないのか。

私今地元の小学校で子供たちにボランティアとして、パソコンを教える機会があるが、たまたま地元の高校生もカリキュラムの一環として、教える側として参加している。しかしパソコンに関して、教える側の高校生のあまりにも低い知識、技能レベルに驚くことが多い。高校でも、パソコンはIT教育の一環としてカリキュラムの中におり込まれているはずだが、実質的な教育はあまり行われていないようである。それは別にパソコンに限らないが、こんな高校生が就職しても、仕事に必要な知識や技能が身についてなくては仕事ができるわけがないのである。雇った側はパソコンをはじめ基礎的な技術、実技、場合によっては読み書きを教えることから始めなければならないのだ。

高校の無償化はいいことだと思うが、それを意味あるものにするためには、高校・大学といった高等教育の中身の充実こそが、あらゆる意味で現在の就職難問題を解決する根本的な対策の一つであることを指摘しておきたい。

tad

2010年1月10日日曜日

何が黄門さまだ

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私は昔からTV番組「水戸黄門」が好きで、もう何十年続いたのか、今でも再放送を含め飽きもしないで楽しんでみている。特に夢中になって見ているわけではないが、くだらない、凝りに凝ったTVドラマなどよりよほどおもしろい。あんなワンパターンの話のどこがおもしろいのかとカミさんに馬鹿にされながら、それでもその単純明快な紙芝居を楽しんでいるのである。

いやなぜそうなったかはいちいち説明する必要もないが、一つあるのは、まだ小さい子供の頃、この水戸黄門の話に接したということがある。

私がまだ小学校に入学したばかりの頃、一家は大阪、堺に住んでいた。当時日本は太平洋戦争の末期、日本の各都市は大空襲の被害を受けていた時期だ。七人も兄弟がいて大変だと、上の姉と私が富山の祖父母の家に疎開させられた。その間終戦までわずか十ヶ月くらいの間だが、祖父母の家に住み、地元の小学校に通ったのである。堺の家には子供向けの本や絵本があり、子供の頃から結構見よう見真似でそうしたものを読んでいた。

ところが祖父母の家にはそんな本などまったくなかった。なにせ疎開先のこと、近所に友達もなく、祖父母が一緒に遊んでくれるわけでない、結構退屈していたに違いない。そんな時、家の床の間の棚にあったのが、講談の本、五、六冊はあったと思う。祖父が読んでいたのだろう。その中に宮本武蔵だの、太閤秀吉だの。水戸黄門の話があった。特に水戸黄門の話がおもしろく何度も何度も読んだものだ。今のテレビの水戸黄門の話などでなくさらにもっと単純明快なものであった。だから読めたのだろう。

いやそれがあったからに違いない。高校、大学そして社会人になってもTVのドラマで登場する太閤記、宮本武蔵、水戸黄門などどんなストリーであれ、熱心に見てきたものだ。社会人になって会社勤めをし、複雑な人間関係、仕事に悩む中で、いつもあの「葵の紋所」があったらどんなにいいかと思ったことは何度もあったのだ。世間の苦労などなんにも知らない(?)カミさんなどがそうした「屈折した」心情(?)などわかるわけがないのである。

前置きが長くなった。講談についての昔話をするつもりではない。今日言いたいのはその政界の水戸黄門と呼ばれる渡部恒三氏のことだ。最近のこの人の言動について苦言を呈するのが目的である。水戸黄門の実像などまた別のものがあるのだろう。それはよく知らない。が、少なくともTVや講談本に出てくるような水戸黄門はもっと明快な正義感を持った人であり、今の渡部恒三氏のようなぬえ的存在でないことは明らかだ。ぬえのように陰気ではないが、正体不明なところがある。

特に最近民主党の党顧問からはずされてから、なにかと小沢批判を始めた。批判が悪いとは言わぬ。やるならもっと正々堂々、小沢氏のどこがどう間違っているか、それがどうして天下国家のため、民主党政権のためにならないのかを言うべきである。それをちくりちくりと皮肉をいうばかり。まさにスキャンダル、あら探しばかりやっているマスコミ以下のていたらくである。

長年衆議院の副議長をやり、勲一等旭日大褒章を受けた身である。すでに小沢氏などよりはるかに栄華栄達の身なのだ。その立場から天下国家を論じ、小沢氏を批判するのならいい。それが民主党の七奉行なるものを作って、小沢氏が中国に出かけている間に七奉行を集め、反小沢連合を作っているのような印象を与えることが天下の副将軍のやることなのか。マスコミは面白がってそれをやるが、そんなものに乗る方も乗る方である。

tad

2010年1月7日木曜日

日本とインド

参考資料をつけたBLOGはこちらです。

鳩山首相は昨年暮れ12月27日から30日までインドを訪問した。TVニュースを見ていたら、この忙しい年末、しかも内閣が三重苦に苦しむ中、外遊などやっている暇があるのかみたいなニューアンスのことを言っていたコメンテーターがいたが、何を言ってるかという感じで聞いていた。これからの日本にとってインドは、アメリカ、中国と並んで外交的にも経済関係でも極めて重要な、よく使われる言葉だが、「戦略的パートナー」なのだ。その意味でも鳩山首相の訪印の意味をマスコミはもっときちんと解説して欲しいという感想をいだいた。

先日日米中の関係は正三角形であるべきだとBLOGで書いたら、数多くの異論のコメントが寄せられた。いや、sその正否は別にして、はっきりしているのは日米中の関係は非常にややこしい、微妙な関係でなのだ。正三角形論をめぐっての意見の違い一つ見てもわかる。

が、こと日印関係となってくると、日本とインドがいくら仲良くなり、経済関係を深めようと日本国内は、もちろんインド側からもそれについて大きな懸念があるわけでない。第一今その両国の間になにか大きな外交的紛争課題があるわけでない。

さらに日印の関係強化がアメリカ、中国ほか近隣アジア諸国に、基本的になんらかの懸念を生じさせるということもない。経済産業面では輸出市場において、競合関係がある部分ももちろんあるが、それよりむしろ補完的な関係が多いようだ。日本の得意分野である自動車産業、IT産業、環境産業、原子力発電など、それにそれにまつわる先進的技術をインドが求め、またインドがそうした分野で日本企業にとっての巨大市場であることは事実である。日本の携帯電話は技術的には世界でももっとも先進的なものだが、世界市場でのシエアは極めて低い。その意味でも日本企業が巨大市場であるインドへの進出のきっかけができた意味は極めて大きい。

ポイントは日米中の関係が正三角形か二等辺三角形かは別にして、その三者の協力関係が場合によってはゼロサムゲームになりかねないのに対して、日中印の関係、さらに日米印の協力関係はいずれも非ゼロ和、誰にとってもマイナスになるより、プラスサム、すなわち誰にとってもプラスになるだうという引用記事(チャイナネット)の見方は非常に興味深いものがある。

本件に関してなんだが、楽観的ないいことばかり書いてしまったようだが、日印関係に関する懸念材料についてご意見があれば是非いただきたいものだ。

tad

2010年1月6日水曜日

総理ツイッターはやめてください

参考資料を含むBLOGはこちらです。http://blogs.yahoo.co.jp/tadhayase/58936452.html

このツイッターなるもの昨年後半くらいからネット上で話題になったことは知っていた。自分でも登録してやってみたが、まだ今のところは本当におもしろいとか、なにかの役に立つとかいう実感はまったくない。Wikipediaの解説によれば、BLOGとチャットの中間的なものといい、自分はBLOGはやり、チャットも経験はあるが、まだ
そのツイッターなるものの利点、欠点のことはよくわからない。

だから今はツイッターそのものについてどうこうでなく、それを鳩山総理が始めるという動機のことや、果たしてそれ自体に問題がないのかということについて書いておきたいのである。実は私は一国の総理たるものが、これを始めるということについての危惧を加藤紘一氏が指摘するような意味で持っていたのだった。

今鳩山内閣の支持率が低下した理由の一つは首相個人のリーダーシップ欠如、とりわけその発言のぶれにあることは明白である。特に外交・防衛問題、普天間問題に関する発言のぶれはひどいものがある。これを聞いていて、アメリカ、日本国民、沖縄県人が不信感をいだくのは当たり前である。総理は公人、しかも日本のトップとして、あらゆる事項についての意思決定過程を刻々国民にオープンにし、知らせることが義務であると思われているらしい。それは違うのではないか。国家のトップが意思決定のすべての過程をオープンにする必要などなにもない。いや、むしろそうしてはならないのではないか。

すべてのことが決まった上で、しかもそれは外交問題であるからそれをアメリカ側、国内の関係部署からも一定の同意を得た上で、発表し、その決定のいきさつを説明するのは必要だし、また当然のことだだ。それがこの問題については外務大臣、防衛大臣、挙句の果てに連立与党の見解、総理の見解がばらばらになって出てくるのだから聞いていう方は一体どうなっているのか不信感を持って当たり前である。

私に言わせると総理は、あのぶら下がり記者会見もやめた方がいい。あれがあるから何か言わなければならないのである。総理は誠実な人柄であるから、その時点で自分が思っていることを言ってしまわれるのだ。それが誠実さの証なのだ。そして結果、別の時点では別のことを言うことになってしまうのだ。それがまさにぶれなのである。

ツイッターなるものは、そのまさに瞬間、瞬間心に浮かんだことをつぶやくのである。それを互いにやることで、新しい発想、思いがけない発想、アイディアが浮かんでくる。いわば連想ゲーム、会社などで、よく教育訓練でやる何といったかなあ、そういうものなのだ。それが非公式の場でそういう発想交換の場として行われるのならいい。

そういう意味では総理が仮に限られた仲間と非公開でそれをやられるのなら一向に構わないが、それを公開でやったら大変であることくらい誰が考えてもわかる。その発言はすべて記録され、一つ一つにURL(アドレス)がつくから大変である。総理がこんなことを言ったあんなことを言ったとあらゆるところで引用されてしまう結果になる。それは単なるつぶやきであるなどと言って果たしてすむか。こと総理に関してそうはいかないことまた自明ではないか。

おそらくツイッターをやったらと進言した側近がいるのだろうが、今からでも遅くないやめておかれた方がいいとするのが正解だろう。

tad

2010年1月2日土曜日

「ゆりかごから墓場まで」:高福祉高負担国家論

参考記事を含むBLOG記事はこちらです。 

年末鳩山内閣の長期経済成長戦略が発表され、論議を呼んだ。それは例によってマスコミからさんざんたたかれた。中でもひどいのはTVニュースショーのコメンテーターたちのコメント。総じて中身のない、ビジョンに欠け、具体性に乏しいものだとこてんぱん。

私はその内容の良し悪しはともかく、こういう形で長期の経済成長戦略が時の政権によって提示されたこと自体に非常に意味があり、それは評価されてしかるべきという意見を31日のBLOGで書いた。よかろうと悪かろうとともかくこういう議論がさかんにされること自体に非常に大きな意味があることは間違いない。

ただろくな批判をしないマスコミ評論家の中で、要するにこの長期経済成長戦略論議で分かりやすいのは、国民に日本は一体どういうタイプの福祉国家像をめざすのかを、明確にすることだという趣旨の発言については、私はその通りだと思った。麻生前総理はそれについては、この国は中福祉、中負担を目指すのだといっていた。現状程度からもう少し上のレベルの福祉国家をめざすなら、消費税を10%から15%位まで引き上げる必要があるという、大雑把だがそういう趣旨の説明であったと思う。それについては、それはその通りだろうと思っていた。

一方民主党が党是として言っているのはあきらかに、高福祉国家なのである。子供手当てのことといい、貧困層への手厚い配慮といい、医療、介護、年金サービスのさらなる充実といい、そのめざしているものは、「ゆりかごから墓場まで」の北欧型の高福祉国家のようなのだ。、そうであるのなら、それは結果として当然国民にその負担、より高い負担を、例えば消費税20%、25%といった、スエーデン、フインランドのような財源高負担国家をめざすことになるのは必然である。

来年度の予算については、子育て支援の財源を捻出するにも四苦八苦、なんとかごまかしたが、来年以降の財源捻出に苦労するのは目に見えている。党内でもそろそろ仙石氏のように消費税アップの検討を始めるべきだという声が出てきたのは当然なのである。ところが肝心の鳩山、菅の両氏はこれについては将来の議論はあってもまだ当面はないというスタンスで通している。それはあきらかに間違いではないか。

消費税アップ論の前に、まずは無駄使いを徹底的にやってからだという主張は正しいが、長期経済成長戦略といっても経済成長率はせいぜい2%、3%という最低限のものなのである。そんなもので、果たして、理想として掲げる高福祉社会の実現など可能なんだろうか。そのために税として国民にどれくらいの負担を求めるのかを明確にすることこそが、国民の信頼を得る絶対必要条件であると思われる。

繰り返しになるが、あの程度の経済成長率を維持しながら、この国の福祉レベルをどの程度にもっていくのかという論議があるべきなのだ。2.3%の成長で果たして、民主党が理想としてもっている高福祉社会が維持できるのかどうかという論議である。もし北欧型の高福祉国家をめざしているのなら、結果としてそれが高負担、すなわち消費税20%,25%すら必要になってくるという議論が出てきてもおかしくない。

この点に関して世論調査では、どうやら国民はその高福祉、高負担という北欧型モデルを希求しているようなのだ。いや、少なくともそれについての国民の意識調査をまずやってみる必要性があるのではないだろうか。

長期経済成長戦略などというからわからないのだ。現民主党政権が今まずやるべきことは、国民が長期的には高福祉高負担の国家像を希求しているとした場合経済成長戦略に加えて、そうした高福祉国家像にまつわる税という国民の負担、高負担をどういう形で国民に求めるのかという説明を堂々と国民にすることである。

それを夏の参議院選挙に負けないようにするために、当面消費税増税論は避けておこうなどというちゃちな考えはやめるべきだ。鳩山、菅両氏がそれを言えないのなら、幹事長の小沢氏が、かって国民福祉税7%をいい細川政権を崩壊させたトラウマにめげず自らの政治生命を掛け、政府に対し明確な増税論議スタートを主張することである。それはまだ先のことだが、必要不可欠なプロセスではないのか。そのこと自体、選挙にも有利に働くことはあっても必ずしも不利に働くことはないと私は信じている。

tad