2016年5月24日火曜日

「サラ川は 卒業したい 定年後」 

今年もあの有名な「サラ川ベスト10」が発表されていました。みなさんなかなかお上手ですね。私などとてもあんな上手い句はできません。

「退職金もらった瞬間妻ドローン」これが今年のベスト・ワンの句だそうです。

私も生涯基本的にはサラリーマンだったから、職場でのこと、また家庭でのことなどでこうした一連の句に共感できることは多々あります。が、ただ長年それを眺めているといかにもワンパターン、なにもそこまで、自虐的にならなくてもいいではないか、と思う。

どうして、もう少し「武士は食わねど高楊枝」的反逆精神というか、天邪鬼的精神があってもいいのではないかと感じるのです。

そうだ、そうだあの句は傑作だ、あれおもしろいと酒場でやるのも悪くはない。が、たまにはもう少し、前向きに、建設的というか、独創的というか、ボランティア的精神に満ちた句の一つや二つあってもいいのではないか。多少いい格好しいのところがあるかもしれないが、そうしたところがあってもいいのではないか。

そんな職場を去って言ってもう20年、30年経つのに未だそんなしがらみから逃れられない元サラリーマンがいること自体がおかしい、それは情けないと思わぬでもない。

もうこちらは今は会社とか組織とかは離れて完全に自由な身、いいの悪いのは別にしてそうしたしがらみなど一切ないし、家庭でのつれあいとの関係、その他家族との付き合い方もその頃と全然違ってきていることも事実。だのにサラ川の句、定年退職後なのにかってのサラリーマン時代のしがらみをそのまま引きずったものが多い。多すぎる感じがするのである。

そうしたしがらみから開放されて、どうしてもっと自由を満喫しないのか。自由な発想、機転に満ちた生き方を探る、出来ないもののそれを目指す、示唆する句があってもいいのではないか。

家庭のこと、自身のことは当然大切だし、それが一番大切なことは分かるが、もう少し世界のこと、天下国家のこと、身の回りの社会のことにより広く関心をもち、それを論じるようなところがあってもいいではないと思うのだ。それがこの世、人間社会に生まれてきた意味そのものではないのか。


サラ川入選句などを見ていると、どうもその視野が狭すぎるような気がしてならないのです。

いやこんな抽象論を語ってもなんの意味もありません。 サラ川にかぎらずと新聞各紙に出ている時事川柳などを見ていると、こちらはなるほどそうだ、その通りというものが結構あります。どちらかというと私もそちら派。その方が存在意義が高いと思うのです。

まあなにはともわれ、昨夜寝ながら考えたへたくそ川柳いくつかあげておきます。それが私が述べたこと、言いたいこをどれだけ言い表しているか、どうかはわからりませんがその一端を感じていただけるでしょうか。

「道義など 何もはからぬ 第三者」    鉄面皮知事
「リリーフに 使ってみたい コメンター」 田中、橋下、橋元、東などなど
「言い訳に 使わないけど あの犯人」   沖縄事件被告名
「使い道  何もないけど マイウエイ」  オンリーワンのマイナンバー
「恰好が ついてよかった ノーベル賞」  よくやった!
「こうなれば マジック頼り 電王戦 」  羽生名人登場
「サラ川は 卒業したい 定年後」     昔を引きずる情けなさ
「しゃくなのは 日台絆 深きこと」    蔡英文新総統就任
「いいですね いつでも持てる 核の傘」  日米同盟廃止
「G7 隠れ主題は あのジョーカー」   自由主義社会共通の悩み
「イスラムの 市長を選ぶ ユーモア」   さすが民主主義英国
「いいかげん 脱皮をはかれ 自虐ぐせ」  定年退職礼賛派

そのページにアクセスした途端、音楽が鳴って自虐的川柳を読み上げるセンスはもう超古い。どんな句であれ、文を読みながら、いろいろ「考える」から、おもしろかったり、参考になったりするのだ。それを声で読み上げられるともうそれは雑音以外の何ものでもない。

そんなものを見て聞いて、ふんふんなるほどなるほどなるほど、そうだそうだと悦に入るようだと困る。道理の通らぬこと、悩み事、ストレスなどなどそれを癒やしたい気持ちはわかる。だけどそれをいつまでも引きずることはない。

今はもっと明るく、前向きに対処するマインドを持ちたいのである。もっと天下国家を論じてみよう。

それをする場はいくらでもある時代なのである。

tad

参考資料:

サラ川ベスト10決定:daiichi 

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