2009年12月15日火曜日

誰がために鐘はなる:For whom the bell tolls

ノーベル賞経済学者ポール・サミュエルソン氏が死去: asahi com

高校を卒業して入学したのは公立大学の経済学部。そもそも高校生の身で経済学とは一体なにか、全く分かっていなかった。分かろうともしなかった。当時経済学というといわゆるマル経( マルクス主義経済学)と近経( 近代経済学)とがあり、私が進んだのはその近経の方であったわけだ。

その意味内容についてある程度理解できたのは入学し、一年目の教養課程を経て、二年目から経済学のABCを教える教科が始まってからのことだ。経済学の祖 アダム・スミスや、今日においても不況時何かと国家の財政出動、公共投資の有効性のことで登場する ケインズ経済学のほんの基礎的なことを学んだわけだ。

当時はまだ東西冷戦時代マル経か、近経かの対比はまだ生きていたというか、意味のあった時代でもあった。1989年、ベルリンの壁崩壊でソ連社会主義社会が崩壊し、この世から事実上マルクス経済学を教える大学がなくなったのは、大学を卒業し26年、もう中堅サラリーマンになった頃のことである。「大学で まだやっている 社会主義」、当時始めた時事川柳の一つにそういうのがあった。もう社会主義経済理論もそれを具現した社会など存在しない。それでも、一部の大学ではまだそんなものを教えているところがあるようだ、という皮肉をこめたものであった。

大学で学んだ経済学など殆どその中身を理解していなかったのは無理もない。大学に入るまでが、大変で入ったとたん勉強など殆どしないというのが当時の一般学生の風潮、最大の関心はいかにいい会社に就職するかだけであった。教授の講義のノートを取り、その一部をマル暗記すれば単位は十分とれ、卒業できたのだった。

その中でも私自身また周辺の友人は比較的好学心に燃えていて、経済学を原典、すなわちケインズなどの著書を英語で読むサークルを作って勉強しようとしたのだった。外国語本など今ではいくらでも入手できるが、当時はそれは丸善書店くらいでしか入手する方法はなく、大阪心斎橋の丸善まで行ってケインズの本を買ったものだ。当時1ドル360円の時代だったから、一冊多分2000円3000円はしたはずだ。なんとかそれを買って仲間3,4人で読書会を始めたのだった。それは語学力がなく、しかも専門知識もない中それは大変難しく、半ページ読むのに1時間もかかったから、あまり進まず、結局投げ出してしまった。だが、そうした経験は今から見ても決して無駄でなかったのだ。

ちなみにこの記事にあるポール・サミエルソンはいうまでもなくケインズ経済学の継承者だがまだ学生当時はその存在は知らなかった。このECONOMICSという本はサラリーマンになってから20年後位の時に買った本だと記憶する。こんな分厚い本を全部読んだわけでないが、拾い読みしてもある程度その内容がわかるようになったのは、それでも学生時代からケインズについては少々学ぶところがあったのと、社会人になって世の経済の動きというものを実体験することになって初めてその意味がわかってきたということである。

そのポール・サミエルソンが11月13日自宅で亡くなられたというニュースを読んでいろいろなことを思い出したのだった。もうめったに本棚など見もしないのだが、このECONOMICSの本を見つけた時はうれしかった。

今鳩山政権の中では来年度予算をどういう規模にするかもめているが、それは一つには、ケインズ派のサミエルソンなども説いている不況時の政府公共投資の有効性の程度をめぐってのことである。不況脱出のため、政府の財政出動の必要性をなん人も否定するものではないが、社会的インフラが相当程度整備されてきた今日それだけがトータルの有効需要を高める道かということをめぐっての議論なのである。「コンクリートから人」というキャッチフレーズの意味は相当深遠なのである。

かっての政府による財政出動の絶対的な有効性を未だ信じる立場、いやそれよりも、社会環境の変化、個人の価値観の変化に伴う個人消費拡大に導くことの方が時代の要請にあっているという立場の対立なのである。その議論は閣内のみならず、与野党、経済学者、識者間で真剣に議論すべき問題である。

それがどうあろうと予算案の方向性が決まったならば、その意味、意図、期待される効果については政府は出来るだけ分かりやすく国民に説明し、結果としてまさにその効果を挙げることについて協力を求めることが必要である。

ポール・サミエルソンの「経済学」の前書きのタイトルは「誰がために鐘はなる」である。経済学とは一体誰のために、一体なにをするためにあるのか、そしてその成果をために政府は一体どうすべきかという問いかけなのである。


tad

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