2013年2月7日木曜日

「セオリーX、Y、Z」ってご存知?


大阪の私立高校のスポーツクラブ指導者による体罰・自殺問題、女子柔道の選手による体罰告訴問題、そして今度は、これを契機に内部告発が起こりかねない高野連が全国高校に体罰防止を通知したというニュースがあった。私は昔からこの高野連という存在自体が大嫌い。日本は今や体罰の是非をめぐって社会が大きく揺れる事態に発展してきた。それもこれもこのこと事態日本独特の社会現象には違いない。

大体この問題、体罰という行為自体がいいか、悪いかという問題だけに収斂してことの是非が論じられるとこと自体そもそもおかしいのである。どうしてもっとこれを社会全体のあり方として、組織論として論じないのかということがある。

そもそも柔道の世界といい、野球の世界といい、あらゆるスポーツの世界、それだけでない。学校、企業、家庭などあらゆる人間が構成する組織の中で起こる問題なのだ。それが一つの団体、組織として成功をおさめるには、その指導者、管理者そしてその配下にある構成員が一体どういう関係にあれば上手くいくか、その共通の目的、目標を達成できるかという組織論そのものなのだ。

スポーツの団体であればその生徒、選手とその指導者、企業であれば管理職と社員、そして家庭であれば、両親と子どもどうして、そのそれぞれの組織の共通の目的、目標を達成できるかということだ。そのために、指導者はその構成員にやる気を起こさせ、日々努力を続けるべく動機づけるか、そのためにどういう指導とその管理を行ったらいいか考えるわけだ。その管理をいかに強制して必要と思われることを徹底してやらせるかするか、それとも、あくまで自主的にやる気を引き出し、それで人並み以上の努力鍛錬を自主的にやらせることでその目標を達成するか。いずれかなのだ。ももちろんその両方のバランスを取ることが大切だと、アメとムチを使い分ける指導者もいる。問題はその結果いかに最大の結果、成果を引き出すかということなのである。

昔経営学なるものを学んだ。それは要するに組織を成功に導くために構成員を共通の目標に向かっていかに動機づけ、働かせせるかということだ。

その場合、、動機づけするにしても、人間なるものは本来怠け者で、自主的なやる気などなかなか起こせないもの、だからやるべきことを強制する、場合によっては体罰や、懲罰を使ってでもそれを強制することで、結果的にはいい結果をもたらす。それが組織のためにも本人のためにもなる。そうしたやり方を経営学ではX理論と称している。

ご承知のようにそれはさまざまなスポーツの世界でこれがまかり通っているし、きたしまたそれによってそれがある種の成功を納めてきたことはある。体罰があるかどうかは別にしてそういう手法で組織が成功を納めてきた事例はスポーツの世界にかぎらず企業をはじめあらゆる組織に存在するのだ。あの大阪の高校の生徒の中にもそうした手法指導法を容認するというか、むしろそれでいいという生徒がいてもおかしくないのである。そうした指導法を受け入れる生徒、社員がいることも事実なのである。この「X理論」が今もこれからもすべて否定されているわけでない。

一方論理的理論的な指導には従うものの、自ら納得できないことを頭から強制するような指導、ましてや体罰懲罰をもって強制するような強制的場合によっては暴力的指導に反発する生徒、選手、社員がいてもおかしくないのも当然なのである。今回の女子柔道選手がそうだった。そもそも彼女たちはすべて、エリート中のエリート、彼女たちがなぜオリンピック選手、その候補になれたかというと、むしろその強烈な個性、自立心、努力というものを持っていたからこそで、そんな人間に対し、画一的な強制的指導を押し付け、しかもそれに体罰などが加わったら反発が生じるのは当たり前のことであろう。

そういう自立心のつよい選手や社員に対しては強制より、むしろこれも流行語になったが褒めて褒めて褒めまくる、いわゆる「褒め殺し」で大成功を収めるケースがあることは周知のことである。そういう人間の自主性、自主的努力を最大限いかすことがいいのだというこれも経営学の言葉だが「Y理論」というものものがある。強制、統制でなくそれぞれ自主的な目標を立てさせ、それに向かって動機づけることが成功への道だという「目標管理」の重要性が盛んに喧伝された時代があった。いや今もそれが企業経営の世界では主流なのかな。いや、スポーツの世界だって、多くの著名選手はそういう環境で育ったものが多いのではないだろうか。

いや今そのことを詳しく論じようというのではない。それはむしろ組織論というより、人間というものの基本的な心理、心理学の世界ではないのか。そもそも人間には、生来人間誰しも、X理論がいうように怠け者的精神と、その一方で他の人には負けないぞという自主、自立的精神を二つ合わせもっているものだ。その中で、指導者、管理職はその二つをそれぞれ個性を見極めながらら、場合によっては脅したり、場合によってはおだてたり、ほめそやしたらしながら本人が目標を達成するように動機づける、導くという、それが一番いいのだという、いわばX理論とY理論の中間ともいうべき「Z理論」なるものに落ち着くのだ。

よくよく聞いてみると、Xだ、YだZ理論だなど難しいことを言うのだが、どうもそれは当たり前のことではないかということになる。

そうした根本的な組織論から離れて、ただ体罰がいいか悪いかということに収斂してしまうこと自体が間違いだと言いたいのである。今回のそれにまつわる一連の事件の経緯を眺めているとどうも、体育系人間、指導者のある意味いやらしい面、わかりやすくいうとなにがなんでも強制的な指導を徹底することこそが目標を達成することの最善の道だと信じ切っていることなのだ。人間はそんなに単純なものでない。

その一方で、まさにことのバランスから言うと、非体育系、同好クラブ系人間のある意味柔弱性というか、目先身勝手性というか、ご都合主義性を指摘しておかなければならない。それが組織である以上、仮にそれが間違っているというか、自分にとって受け入れがたいものがあっても、黙ってそれに従うべきことも多々あることだ。それは黙って受け入れとけばいいのだ。それを糧として受け入れておくことはやがて自分が指導者になった時自分はそれとは違う行動をする位の度量こそが必要なのであろう。それが強い自立心のベースなのである。強いリーダシップはそういう過程を経て生まれるものではないだろうか。
今スポーツ会で成功を収めている選手達など実はそうした強制的指導を受けてきているのだ、あの女子柔道金メダリストの松本選手がそうだった。彼女は問題の監督の指導を受けながらその中で納得できるものは受け入れ吸収し、できないものはそしらぬ顔でそれを受け流していたに違いないのだ。そのことがむしろあのタフな精神力を生む原点だったに違いないのである。優勝の瞬間彼女があの問題の監督と抱き合った画面が象徴的だった。
彼女は監督に最大に反目し、その一方で最大に共感を共有した相手出会ったに違いない。
いつかテレビでPL出身の清原と桑田が、その当時の思い出話をしていた。桑田はあの高校のいじめ体罰問題に批判の言及をしていたが、その桑田自身部内のいじめの問題に触れていた。そんなことは日常茶飯事、でも桑田も清原もそれを乗り越え、それを糧としてやってきたことを語っていたのである。

話が長くなった。言いたいことを要約しておく。

・こうした一連の体罰問題はただ体罰がいいか悪いかということに矮小化化するのでなく 組織論、日本社会のあるべき論というもっと大きな観点からみるべきだということ。

・先にこの問題で橋下大阪市長がその高校の入試試験実施中止を主張して波紋を呼んだが 私はそのことをむしろBLOGで  評価した。それはまさにそうした問題提起であったと思ったからだ。どうも日本という  社会、そういう明らかに間違ったというか、必ずしも正しくない画一的価値観、倫理間  を押し付けるのが当たり前みたいなところがある。そうした風潮傾向に警鐘をならした  のだと私は考えている

・体罰はなにがなんでも悪いということでもないはずだ。実際に身体に傷を追わせたり  自殺に追い込むような大きな精神的ダメージを与えるようなものであってはならない  ことは当然だが、その一方で子どもが生徒が、絶対やってはならぬような行為を行った それは絶対にやってはならぬことを教えるために必要な場合があるのではないか。よく 西洋諸国でみかけるようにお尻を軽くぶったりする位のことはあっていいし、むしろそ れが必要であることもある。もちろんその場合、やる側はあくまでそれは愛情を持って やっていることだということを同時に示す必要があることは当然だ。

・体罰が如何に深刻であるか、いかにそれが日本のスポーツ界を暗くしているかなど
 いまさら心配することなど全くない。ロンドンオリンピックで日本があれだけの数のメ ダルをとったこと自体がその証拠ではないのか。メダルを取った選手達の顔ぶれを思い 出してほしい。みなそうした問題多いという指導、組織の中で葛藤を続けながら、その 目標を達成してきているのである。彼らは皆それぞれの監督、コーチとのいい意味での 折り合いをちゃんとつけながらやっているのである。監督コーチの方だって、いかに
 すれば最大の成果を上げるか毎日葛藤を続けてきた結果なのである。

・別にそのことはスポーツの世界に限らない。どんな組織、それがスポーツ団体であれ、 企業であれ、さらに家庭という単位であれ、指導者、監督者、リーダーと組織員達の  あらゆる意味での葛藤は必ず発生するのだ。逆説的にいうとそうした葛藤があるから
 こそ本当に強い個性が生まれたり、才能が開花したりすることがあるのだ。

・X、Y、Z理論ということに象徴されるように個人と組織、その二つが共通の目標をも ちそれぞれそれをどう動機づけるかというテーマ、それはまさに大げさにいうなら人間 社会の永遠のテーマなのだ。

まあなにかわけの分かったような分からないことを書いてしまった。この問題、ただ体罰がいいか、悪いかでなく、一つそういう観点で見てみようということだ。こうしたことは一つ一つ自分がこの社会に生まれ、生きてきた道程そのものである、あったということに気づくはずなのである。

tad

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高野連 全国に体罰防止を通知:nhk
柔道女子 “失望と怒り”全文:nhk
理論Z :wikipedia
XY理論: wikipedia


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