2013年2月9日土曜日

ピアノ発表会


2月3日日曜日ピアノ同好会の発表会が立川市にあるレンタルピアノ会場で開かれた。
現在月2回程度、武蔵村山市民総合センターの音楽室を借りて、趣味でピアノを弾いて楽しんでいる会がある。現在はその講師でも顧問でもないが、以前その同好会会員の殆どが習っていたピアノの先生がいて、その先生のピアノ教室の生徒も参加、共催という形でやったわけだ。発表会と言っても、大きな舞台の会場でなく、グランドピアノが設置されている街のレンタル音楽室でやる程度のものだった。出演者それにその家族、友人など40名ほど集まった会であった。

当日の参加者は10名、丁度流感が流行り出した時期であり、予定していた人が3人ほど参加を取りやめたのは残念だった。私自身はピアノ同好会の方のまとめ役であった。その立場上、プログラムの作成や、会の司会、集合写真の手配まで依頼されていた。結果自分のピアノ演奏そのものについて心配するというか、そんなことに集中できる暇もなかった。そのことがかえってよかったのだろう。自分の演奏については、まあせいぜい常日頃の70点かそこらであったと思うが、無事終えることができてほっとしたものだ。

いや、70点ならまさに上出来。そんな発表会でもそれぞれの参加出演者、いざとなると結構緊張するものだ。いわゆる「大人のピアノ」発表会となると多くの場合、誰しも想像以上に緊張し、演奏途中で立ち往生という場面にしばしば出くわす。演奏途中ちょっと間違えたりすると、その瞬間頭が真っ白になり、もはやにっちもさっちもいかなくなるのである。場合によっては、演奏そのものを打ち切ってしまうということもしばしば起こる。その結果、定年退職後一念発起して、ピアノを始めたのはよかったが、それに懲りて、やめてしまう人も結構いる。

それが「子どものピアノ」発表会だと殆どそういうことはない。殆どの子どもはすんなり予定の演奏ができるのである。もちろんそれは子どもの場合、担当の先生が発表会に備えて2か月、3か月掛けて、ばっちりその子どもの訓練するからではある。

ただそれだけではない。子どもももちろんそういう場に出ることに緊張はするものの、大人ほどのことはないのだ。むしろ楽しみにしていることすらある。大人の場合はそうではない。本来の実力あるなしもあるが、要するに必要以上に、失敗を恐れる、恥をかけないということにとらわれてしまうのだ。子どもはそうした発表会ではほぼその実力通り出せるのに大人の方は、常日頃の70%も出せれば上出来なのだ。極端に言えば、常日頃の実力を100とすれば、その半分も出さればいいと割り切る位でいいのに、ちょっとした失敗をするともうダメ、まさに立ち往生となってしまう。これが大人の悪いところだろう。要するに必要以上にただただ失敗を恐れるからそうなるのだ。

子どもの場合、ピアノを習い始めると基礎から教本に沿って習っていく。演奏会で弾く曲も、その身の丈、レベルにあったものを先生が選び、徹底的な練習をやって上で演奏会に臨む。

「大人のピアノ」の場合、レッスン場で先生について習うにしても、そうした基礎的教材もなにもないまま、いきなり、憧れの曲を弾くことから始める。そもそもそれが憧れでその曲を弾いてみたいというのがピアノを始めた動機なのだ。先生もそれは無理だからやめておきなさいとは言わないし、言うべきでもない。いやその曲を弾くのに極端に言うと一年掛かろうと構わない。それが弾けるようになって、満足すればそれでいいのである。ところがそういうことでは、普通のレッスンの時、先生の前でそれが弾けても、人前、ましてや演奏会となるともうダメである。

そもそも大人ピアノの場合、多くの場合平生から楽譜を見てきっちり弾くという訓練ができていないし、先生もその手抜きを見過ごさざるをえない。暗譜(譜読みしないで覚えてしまう)と言えば聞こえはいいが、玄人の場合のそれとこれでは全くその中身が違う。

それが素人(大人のピアノのレベル)だとその暗譜の意味が基本的に全く違うのだ。そもそもその楽譜を100%見ながら弾くということが出来ていないのだ。いや確かに練習の時はそれをやっているつもりなのだが、それがいい加減なのだ。楽譜と目の前の鍵盤を同時に見ることなど出来ているわけがないのだ。だから演奏会の時、暗譜してやっていていて一瞬つまってしまうと、仮に目の前に楽譜があっても、それがどこだか分からなくなってしまう。そこの楽譜があってもストップした瞬間それが一体どの部分なのか分からないのである。

先生が横にいる時、つまると先生は「ここです」と指さしてくれるが、演奏会ではそうはいかない。もうつまってしまったら、それでにっちもさっちも行かなくなるのである。かくして、憧れてピアノを始めたが、それで大恥、挫折、もうこんなことはやめだとなることが多いのだ。そんなこと全く気にしない人もいるが、実はそれでいいはずだ。

やめる必要などない。もうそんな演奏会になどでなければいいのだ。でも先生について習っていたら、必ず主演を依頼、場合によっては強制される。断るわけにもいかない。さてどうするか、である。

それを話出すと長くなるからうやめるが、要するにそれを続けたいなら、なにがなんでももう発表会になど出ないか、本当は原点に戻ってやはり基本、基礎から学ぶことが一番だと悟ることだろう。本来はそれが本当ではないのか。

要するに「急がば回れ」なのだ。要するにそのレベルに達するには、結局は原点に戻り基礎から学ぶしかないのである。ベートベンだ、モーツアルトの原曲を弾きたいというのであれば、やはり例えば、ピアノの基礎教本バイエルから学ぶことが必要なのである。大人の自分が今更などと思うこと自体が間違いなのではないか。それをすっ飛ばしていきなりショパンなど弾けるわけがないのである。弾けたと思っても、実際には弾けていないのだ。さらにいうならどうしてそんな高度のものを弾かなければならないのか。身の丈にあったものを選んで弾けばいいではないか。超初心者向けの曲を正々堂々弾けばいいのである。

楽譜など読めなくてもピアノ、ほか楽器が弾けるようになるなどという本が沢山出ているが、あれは真っ赤なうそだと思えばいい。やはり楽譜が完全でなくてもいいのが、かなりの程度読めないとピアノを初め楽器が弾けないなどということは当たり前の話ではないのか。

ピアノに限らず、何事もその基礎を一つ一つ積み上げていくことは楽しくないことかいうことだ。そうではないだろう。いきなりショパンだ、ベートベンだなどの必要性はどこにあるのか。バイエル30番くらいをやれれば、相当数自分の好きな曲、童謡、唱歌、外国の名歌をいくらでも弾けるようになるはずだ。それを弾くことを楽しめばいいのではないのか。そうした過程を一つづつ積み上げていくこと自体が楽しいはずだ。もちろん最後に目指すのは当然ベートベン、モーツアルト、ショパンであっていい。

子どものピアノの発表会はみなそうだ。習いたての子ども、もう5年、10年やっている子ども、演奏曲目は全部そのレベルに合わせてやっている。聞いていて、中学生が弾く、ショパンの名曲にはもちろん感心するが、小学3年生の子どもが弾く外国の名歌もすばらしいのである。

「大人のピアノ」、憧れの名曲を弾いてみたいと始めるのは大いに結構。ただやってみてその困難さを知ったらその困難を一つづつ克服していく、その過程を自ら研究し、それを一つづつ克服していく楽しみを知ることがまさに「大人の学習」プロセスではないのだろうか。私なら、難曲を一年掛けて一つ弾くより、簡単な曲を20曲弾けるようになることをまず選ぶ。もちろん子どもが習うような教材もやってみること、先生に言われなくてもやってみる。やってきた。それが大切なことも分かったし、それでいい。

今朝のBLOGこんなことを書くつもりはなかったのだが、これも人生全てラーニングプロセスという一例、記録として書いておこう。

その発表会当日のプログラムを添付した。いや、それもこれも単なる私個人の一つの日記、記録として捉えていただければいい。

tad


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