2013年1月10日木曜日

スポーツと体育


大阪の高校での事件で、ツイッターなど見ていても問題の焦点が、体罰の是非に集中していた。たまに体罰容認論もあるが、圧倒的に体罰否定論だ。体罰はいけないが学校教育現場で授業の進行を妨げるようなことを繰り返し、いくら注意しても聞かない生徒がいれば、先生が教室から追い出す位のことをやって当然という意見などについては、そうだそうだということもある。体罰はいけないが、学級崩壊を伴うような生徒がいればそれをやめさせるためのそうした強制的アクションが必要なことを論じているなど、そうした議論はすべて不要だとか、無用だということではない。

この事件一つ見て、体罰行為を肯定か否定かなど議論をすることにはほとんで意味がない。観点を変えて言うなら、むしろそれは教育ということの永遠のてテーマなのではないか。かってあの有名な戸塚ヨットスクールの生徒死亡事件があった。スクール生を死に至らしめた行為自体有罪となったが、その方法論がある意味成功というか、弱者救済のために必要であるという論自体は結構存在していた。今でも存在していることは事実ではないか。永遠のテーマなどというのは大げさだが、要するに人間社会の教育論の本質に係わる問題なのであろう。

そんな中NHKの番組でスポーツ評論家の玉木正之氏の一連の発言は面白かったというか、私はこれが一つ今回の事件の本質論ではないかと思った。玉木氏の主張は、今回の事件の根幹はそもそも体育とスポーツを取り違えている、混同しているところにあるということだ。学校で教えているのは体育であって、スポーツではないということだ。それをスポーツとして教えるのであれば、そんな体罰などしている暇はないはずだ、とも主張されている。いや、それをスポーツとして教えるのならそんな体罰など必要はないという趣旨なのだ。全く同感である。

私は長年趣味としてテニスを楽しんできたが、3年位前から卓球を始めた。これが、面白くてたまらない。いろいろな打法、技能を練習し上達していくことがたまらなく面白いし、楽しいのだ。ゲーム、試合など殆どやらないし、やりたくもない。おなじ卓球をやっている人で、まだ基本的な技も身についてないのにゲームばかりやりたがる人がいる。そんなレベルで勝った負けたなどどちらにどう転んでもたいしたことがないのだ。にも関わらずやたら試合をやりたがるのだ。そして勝った敗けたにやたらこだわるのである。さかんにそうした大会に出たがるのだ。

いや、それを悪いということではない。もちろんそれが一つそれを楽しむ方法であればそれはそれでいい。ただどうしてそんな低レベルの試合をやって一体どこが面白いのかと思うのだ。そんなことより汗をたっぷり掻いて、ラリーを続けることの方がはるかに楽しいはずだ。その技能を突き詰めていく中で、レベルの向上があり、それを確かめるためにゲームをやりたいのであれば。それは結構、大いにやったらいいだろう。

ただそうではなのだ。それが部活だクラブだとなると途端にあちこちの試合に出て勝つことが最重要の目的になってしまうのである。学校での部活となるとそれが、勝つためのしごき、罵倒、監視、いじめ、そして体罰につながってしまう。そうしないと部活が成り立たないと指導者は考える。いやそれがその部活の目的になるのだ。

そうではないだろう。それが運動競技であれば、それをやることの楽しさ、面白さ、奥の深さを、実践を通じて教えてやればいいのだ。その中からそのスポーツの奥技を深めたい、一流になりたい、全国大会で優勝したい、オリンピックにも出たいという選手が出てくるかもしれない。そうした選手はその専門教育をしてくれる専門大学に進むかもしれないし、クラブチームに入るかもしれない。一流の選手はそういう形で育って行く。それでいいではないか。

今回の事件もそうだが、学校部活となると話が違ってくることが多い。スポーツ本来の楽しさ、おもしろさを教えるというより、学校のため、その名誉のために戦うというパターンになってしなるのがおかしい。スポーツを科学的に分析して上達のためのアプローチをするというより、精神論根性論が優先するのである。それに耐えられないものに体罰が与えられるということになる。

専門クラブまたは選任コーチの指導はあくまで合理的であり科学的なのだ。そこに体罰など入る余地必要性など全くない。

玉木氏はそのことを指摘されたのだ。、体育とスポーツは違う、と。スポーツのおもしろさと競争の厳しさをしれば体罰などやっている暇はないし、その必要性もない。そうだと思う。

昨日のNHK、夜時半のクローズアップ現代でサッカーの川島選手とフェンシングの選手が、それぞれの基礎体力を鍛えるために自ら料理をしたり、管理栄養士の指導を受けたりする食育には励んでいることを紹介していた。それぞれの分野のスポーツで一流を目指すなら、自ら体力作りに励みながら技を磨いていくことが必要なのだ。

体罰が必要か、許されるかなんて議論自体殆ど意味がない。そもそも学校の部活は一体なんのためにある、その目的はなんのためかという議論自体がもっとなされるべきなのだ。玉木氏がおっしゃるようにそこでの県大会で優勝するなんて事自体たいしたことはないのだ。

そこで教えるべきことはそのスポーツの面白さ楽しさ、奥の深さであって、そんなちゃちな勝ち負けのことでない。それは特にスポーツに限らない。あらゆる部活、音楽ほか芸術クラブ活動などについても言えることであろう。

tad

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玉木正之:wikipedia

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