2013年1月22日火曜日

体育系2科の募集中止の妥協案は正解だ


「 大阪市教委は橋下徹市長が要請した体育系2科の募集中止を受け入れ、定員120人を普通科として募集する「妥協案」を選んだ。予算執行権を“人質”にとる橋下市長の圧力に屈した形で、生徒を軽視した「政治決着」は後味の悪さを残した。

中略

市教委は、予算執行権を振りかざす橋下市長を最後まで説得する努力を重ねるべきだったのではないか。市長の顔色を窺(うかが)うあまり、最も守られるべき受験生が置き去りにされたとの疑念はぬぐえない。

 今回は教育行政の歴史にも禍根を残した。予算権限を盾にする首長に教委が従う悪しき前例をつくったからだ。今後も首長が気に入らない政策はすべて押し切られる可能性がある。

教育行政の独立性をどう担保し、存在意義を示すのか。市教委の姿勢そのものが今、問われている。」(梶原紀尚)産経 1月21日

この事件に関する決着、結論だ。桜宮高校の問題の体育系2科の募集を中止し普通科に替え、入試を実施することにした。当初全面的中止を主張していた橋下市長との「妥協案」だ。橋下市長はこれをすばらしい案として評価。その形で入試が行われることになった。
この決着の是非については国論は二分、マスコミの論調も、聞各紙の社説など見る限り
どちらかといういつもの橋下市長の強引とも言える主張への批判が高いようだ。暴力教師非難、そうした学校の体質改善を求めることには一致して橋下市長の言い分を支持するものの、こと入試中止の主張には、この時期になっての生徒、受験生の困惑を考え、そのショックを考えるとどうしてそこまでしなければならないのかという観点から反対を唱える向きが殆んどだ。それは「本末転倒で本来の解決に結びつかいない」ということなのだ。

同じ世論でも、マスコミ紙のそれと違いこの決着について、ツイッターなどをネット世論を見ていると、この決着を支持する意見が案外多いという印象を私は受けた。だから、私もそうした意見に同調するわけでない。私自身は他の誰がどうこう言ってるのでなく、ましてやマスコミがどう報道しているか、主張しているかに関係なく、自分は自分としての意見を持つ。ただその場合でも、その主張、判断が大きく論理的におかしいとか、事実関係に反しているとかということことのないように、他の人たち、マスコミがそのことに関してどう言ってるか、考えているかということを確かめるのだ。それによって自分のひとりよがりでなく、多くの人でなくてもいい、自分の考えに近い人がいることを確認するのである。そのプロセスを経ることはいいことであり、必要なことだと思うのである。

前置きはいい。結論を言おう。私は今回のこの件に関する橋下市長の考え、市長としての行動を大筋において支持する。橋本市長の本心は、当初の入試全面中止であったようだ。しかしそれ自体、それは入試を控えた受験生が存在する以上、そこまではできないし、すべきでもないということだったのだろう。従って教育委員会が妥協案として体育科を普通科にして入試を実施するということについて「すばらしい案」だと評価のコメントをしたのだと思う。それがまさに現実的かつ筋の通った解決案ではないか。

市長の狙いは、受験生を困惑に落としれることではない。暴力を振るった教師の処分は当然のこととして、問題はそうした体質の組織を作ってきた学校の校長を初めとする指導層、暴力を見て見ぬふりをする教職員、さらにそうした暴力容認の体質をいいもの、学校のよき伝統だとして受け入れてしまう生徒自体の体質、価値観を変えたい変えるべきだということにあったと思う。さすがそのことは口にだして言わない、言えないが、そうであったと思う。問題の根本的解決は暴力教師一人を処分してすむ問題ではないのだ。まさに学校ぐるみの体質の改善が必要なのである。

それはまさに組織ぐるみであり、組織ぐるみの体質なのだ。それを変えるためには、教職員総入れ替えが入試実施の条件だという主張もうなづける。そうでもしない限り、生徒たち自体の誤った考え、価値観を正すことはできないということなのだ。

マスコミ社説の大半は暴力体質改善の必要性を言いながら、そのことは生徒は無関係で
生徒たちを苦しませ、悩ませて一体どうなるのか、彼らの人権、教育を受ける権利は一体どうなるのかという論調が殆どなのだ。それこそがまさに本末転倒論なのだ。

生徒の権利、人権? それを守れ? それは違う。生徒は未成年なのだ。まだ自分では、事の正邪、正しい倫理観、価値観など持ち合わせない、判断できないのである。彼らに正しい倫理観、価値観を教える環境を作ることこそが大人、教師、教育行政関係者、政治家の務めなのである。それが生徒の人権を守るということのはずだ。そのためには教職員全員の入れ替えが必要だという考えは間違っていない。そうでもしない限り生徒たちに正しいものの考え方を植え付けることはできないのである。

この決定で、体育科を将来に亘って廃止するとは言っていないはず、とりあえず問題の体育科を普通科にして募集するというのは、なんの罪もない入試受験生徒には最善の救済策ではないか。普通科に入り、その中で体育重点のコースという行き方に一体なんの問題があるのか。

高校教育の原点について考えよう。そもそも高校の無償化ということがどうして行われたか。高校レベルの教育位義務教育化しなければならないからではなかったか。私はそれには大賛成である。もっというなら、そういう基礎的、基本的な育を行うべき高校に体育科なるものが必要なのかということである。学校に入ったとたん他の基本科目は形だけつけておき、特定のスポーツばかりやるようなそんな科が必要なのか、あっていいのか、という根本問題にさかのぼる。

私はなにもスポーツとか体育が不要だと言っているのではない。それが教育の一貫であることも当然だろう。しかし高校が義務教育の一貫であり、それを国費で全部負担するということなら、その中身、やり方をもっと考えてもらいたいのだ。その公費がとにかく特定のスポーツをやり、一学校の名前をあげるために全国大会の競技で優勝することに全ての焦点を当てる「科」、そんな教育に公費が使われること自体がおかしいのである。本来の意味目的に反して存在する教育組織に公費は出さいないぞと橋下市長が脅したという報道だ。が、私に言わせるとはそれは脅しでもなんでもなく、筋の通ったことではないのか。
この決着について「やくみつる」なる評論家が、「混乱だけ招いた」と批判しているが、それはやむをえないことだ。そもそも混乱を招いた根本原因はむしろ、このこの高校の学校としての存在、組織そのものにある。その組織の根本的あり方に疑問を呈し、その改善を求めることが行政の責任の一端なのだ。

本来ならそんな反社会的な組織の存在そのものは認められいという判断でもおかしくない。ただこの高校の生徒というより、これからそこに入ってくる受験生にはなんの罪もないのである。その救済のために今回こうした妥協案になった。

私はそれでいいと思う。現状で考えられるベターで筋の通った妥協案ではないか。

tad

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