2013年3月16日土曜日

ネット時代祖父母の役割


今朝たままた巡りあったネット記事です。おもしろいと言えば、つまらないと言えば、まことにつまらない記事です。いずれにせよまず全文にざっと目を通してください。

この記事要するに、パソコン、ネットの普及によって、世の中のことはなんでもパソコンで知ることができるようになってきた。家庭でも子供はどんどんあらゆる知識をネットで調べるので、忙しい両親に代わっていろいろな知識を教える立場にあった祖父母、それが楽しみであった祖父母の生きがいが奪われつつあると言うのだ。なんでもイギリスでの調査結果だそうだ。

これについて、この記事、いやそんなことはない。昔もそしてこれからさらにネット化する今の時代にあっても、家庭内での祖父母が孫世代に果たす役割が変わることがないはずという反論のほんの一端が書かれている記事なのだ。

記事を読んで私の感想は、「何を馬鹿なことを書いているか」だ。実にくだらない記事ではないかということだ。

今の子ども、あらゆる知識は、パソコン・ネットで得ることができる。だから、それを教えてきた祖父母の役割がなくなる? 何を言ってるかである。もしそれが本当なら、それを敷衍すると、祖父母どころでない、両親そのもの、いや学校の先生だっていらなくなるという「論理」につながりかねない。

問題はその知識の内容である。子どもは、さまざまな知識を両親から、祖父母から、そして学校では先生から学ぶのだ。その内容、共通項もあるが、少しづつ違う、祖父母のそれが貴重であるのは、同じ事象、知識についても、若い両親、先生などと違う、長い人生の体験、人生観、価値観に基づく解釈、解説がついているからだろう。

子どもがそれをどう受け取るかは別の問題だ。時間のない両親の説明はどうしても直接的、短絡的になりがちだ。祖父母のそれは、長い人生経験に裏打ちされた総合的なものだ。いやそうあるべきなのである。少なくとも、あらゆる事象についての説明は両親や先生のそれと少々違うかもしれないところがあっていいのだ。あるべきなのだ。

子ども、幼少の孫と散歩に出かけた、両親、祖父母は、みな経験することだ。子どもは盛んに質問する。「あれ何?」「あれは蝶々だよ」「蝶々って何」「蝶々ってどうして飛べるの」・・・たわいのない会話が延々と続く。そのたわいもない会話に延々と付き合ってやれるのが祖父母であり、それが一つ重要な祖父母の役割なのである。子どもの時そのような会話、対話を体験するかしないか、どれだけそれについて、大人と付き合ってもらったか。それがその子どもの知能的成長、精神的成長、知識力、理解力、論理力、ひいては自主性、創造性などの育成に大いに関係していると思われる。問題意識のある子どもとなりうるか、どうかの境目ではないか。

私は小学校でパソコンを教えているから、そのことがよく分かる。パソコンを教えるとはおもちろんその使い方を教えることがまず基本であることはそうだろう。が、実はパソコンの使い方など、子どもはほっておいても勝手にどんどん学ぶものだ。

一番肝心なのは要するに自分のやりたいことを持っている子どもと、そうでない子どもの差は歴然としていることである。それはなんであってもいい。自分でやりたいことがある子どもはそれに向かってどんどん必要なことを自分で調べたり、集めたりする。そのやり方が分からない時は、パッと質問し、それに答えてやると、直ぐに次の目標に向かって突き進む。

その関心の中身はなんであってもいい。サッカー好きの少年は世界中プロチームにアクセスし、著名選手の選手名鑑から、写真をプリントアウトしたりする。AKBフアンの女の子も好きなタレントについて、調べたりする。理想的なのはクラスの学級新聞作成に取り掛かる子どもだ。それが最高のパソコン学習法そのものであるからだ。

ところが自分のやりたいことを持っていない子どもは、完全に指示待ちだ。ああしなさい、こうしなさいと指示があれば動きだすが、それがないと、何をやったらいいか、自主性に欠けるのである。そういう子どもに限って、先生の目をぬすんで単純な、反射神経だけを試すゲームにとりかかる。そんなものはダメだ言うと、なぜあちらはよくて、こちらはダメなのかという反発する。いや、反発し、それを口に出すのはまだいいのだが・・・。
自分の孫、小学校3年生だが、最近盛んにパソコンに触りたがるようになった。親の方はある程度自分のものを使わせたりはしているようだが、多くの場合、それをやってはいけない、あれをやってはいけないとなるようだ。自由に触らせると、それを壊したりする可能性がある。何をやるか分からないという不安がある。いちいち監視できないし、ある程度の規制をするのはわかるし、しかたがないことだ。

ただし私は違う。監視の時間は親よりは多い。パソコン自体自分自身のものだから、好きなように使わせる。そうしたらからと言ってこれまでパソコンを壊されたことなどない。メールをやりたいと言えば、メールアドレスを取ってやり、親や遠くに住んでいる叔母さんとできるようにしてやる。

最近ホームページを作りたいというので、簡単なベースを作ってやった。夢中でその中身を作ろうとやっている。それでさまざまなパソコンの使い方を覚えるし、なによりも一番いいのはそれで作文したり、お絵描きをやったりする機会が増えることだ。

いや、この話、始めると長くなる。もう5時40分になったから、この記事そろそろまとめなければならない。

要するにネット時代、子どもはどんな知識もネットで入手できるから、家庭内での祖父母の役割が少なくなったとか、なりそうだなどということは全くないということだ。いや祖父母どころでない。それを言い換えると学校の先生の役割が小さくなるということにつながりかねないのだ。

その結論は述べたつもりだが、再度書いておく。本当はその逆だ。教育教育現場のIT化、ネット化が進む時、先生の役割はむしろ総合化、高度化するはずだ。単なる知識を教えることよりも、それを使って一体なにを創造するかということ、それをどう教えるかがが問題となる。

今日の話は学校での先生の話でなく、家庭での祖父母の役割、孫世代に一体何を教えられるかということであった。ネット・パソコン時代、家庭で祖父母が孫に教えること、教えられることとは一体何かということだ。それはある程度既に書いたつもりである。

どんなことが教えられると思いますか。ご自身それを問うてみよう。それは実はパソコンがどうの、ネットがどうのそんなこと全く無関係ではないか。

tad

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